終南山 見松院 善導寺 (しゅうなんざん けんしょういん ぜんどうじ)
寺伝によれば、元明天皇和銅元年(708) 、
行基菩薩東国遊化の砌、上州館林に錫を止め、
旧土橋村と加法師村の間の林中に一庵を結ばれたのが創まりといわれています。
後鳥羽天皇建久四年(1193)3月、頓阿見性法師、行基菩薩の旧跡を偲び、草庵を修建し、菩薩の化益された羅刹魁の祠を営み、終南山の鍾馗に擬えて鎮守とし、浄業専修のうちに弘長元年(1261)3月15日百余歳をもって示寂されました。
その後十数年を経た九十一代後宇多天皇建治二年(1276)10月、浄土宗4祖寂恵良暁上人により同地に専修道場を再興のため伽藍が建立され、初めて「終南山 見性院 善導寺」と呼称されました。それまでは、単に「行基寺」と唱え、或いは「見性院」と称えられてきたといいます。
以来三百余年間にわたり、歴代住職よく法灯を継承すると共に、代々の領主( 由良氏、長尾氏、赤井氏、北条氏) により令法久住の談林として特に庇護を受け、寺門に制札を掲げ、軍兵の狼藉を禁じられ、護持されました。
元亀天正の頃戦国争乱の為、寺院は荒れるに任されるに至たりましたが、
天正十八年(1590)榊原康政侯は、徳川家康公より館林城主10万石に封ぜられると、以前から徳行四方に聞こえ、白旗流祖建幢の再興を志されていた幡随意白道上人に篤く帰依し、上人を当寺中興第一世と定め、 場所を現在の谷越の地( 館林駅周辺地) に移し、本堂をはじめ七堂伽藍、付属堂宇を完備されました。
康政侯は、このとき善導寺を榊原家の香花寺とし、荘園100石が与えられました。
慶長十一年(1606)康政侯遷化され、当家の菩提所となりました。
元和元年(1615)家康公、「松」に十八公の嘉誉あるに因み、( 一説には彌陀の四十八願中の王本願に擬えて云々)、 関東に十八の檀林選定にあたり、当寺もその一つに加えられ、院号が「見性院」から「見松院」に改められました。
正保元年(1644)、榊原三代忠次侯、奥州白川へ転封の折り、三代将軍家光公より供田100
石と諸役免除の朱印を賜り、以来徳川代々の将軍並びに館林各代領主の当寺を遇すること厚く、明治二年(1869)二月二十三日勅願所の綸旨を下賜されました。
昭和六十年、館林市都市計画により、旧谷越の地より、城沼東端旧沼附の地に移転再建されることとなり、約五年余にわたって現在地楠町に再建され、平成二年、功成って落慶の運びとなり現在に至っています。